国会中継

朝食を食べていたら父が見ていたので、一緒に国会中継を見てみました。
…うーむ。なぜこんなに稚拙な議論をしているのでしょう。話している内容がきわめて抽象的で、具体的な裏付けに欠けます。やたらと「そんなことでいいのか」とか言うんですが、はっきり言って、相手を指弾することはどうでもいいと思うのです。重要なことは、根拠を示して問題点を明確に示すことです。例えば、竹中大臣に対して「学者の机上の空論だ」などと非難しているわけですが、竹中大臣が学者であるとかないとかってのは、国会の議論においてどうでもいいことなのです。また、机上の空論であると指摘することそのものにも、大きな意味はありません。なぜなら、なぜ机上の空論であるのかという点が重要であって、その内容がなければ指摘に意味がないからです。例えば、「竹中大臣の主張する民営化モデルは、理論的な検証はなされているが、実際の検証はなされていない」などと言うべきです。そうやって中身を指摘することで、理論的な検証に終始しがちな学者の体質を指摘するのはよいでしょう。しかし、肝心な中身をすっ飛ばして学者であることだけを非難することに意味はありません。理論的な裏付けがあれば、学術的には十分です。しかし、実際に政策として運用するためには、モデルから省いてしまった細かい要素が大きく影響してくることがあり得ます。したがって、竹中大臣の主張する郵政民営化のモデルを精細に検討し、省略した要素に重大な影響を及ぼすものがないかを調べて指摘するべきなのです。例えば「諸外国ではそれでうまくいっているかも知れないが、日本の郵便局にはコミュニティの一環としての役割がある。このような役割は条文に明記されることはないが、十分に提供されるべきだ。民営化によって効率化されれば、そのような役割が提供され続けることが保証できない」と言ったことです。あるいは「予測にはサービス提供地域に関して将来的な不確定性が含まれる。リスクを恐れては何もできないことを理解はするが、野党としてこの案のリスクは容認できない」などです。もちろん、他にも方法はあるでしょう。いずれにせよ、相手の肩書きや表面的な疑問点だけを非難しても始まりません。なぜなら、中身は変えられますが、結果として表面に現れてくるものは、中身を変えなければ変わらないからです。過疎地におけるサービスについて指摘するなら、過疎地におけるサービスについて言及した条文を取り上げ、その不十分さを指摘しなければなりません。「大丈夫と言っているが、本当に大丈夫なのか」などと問いただしたところで、「絶対大丈夫だ」、「本当に大丈夫なのか」という水掛け論になるだけです。