今の子供達は、そして僕たちは幸せなのか

夢を見ました。おそらくは遠い昔の出来事。
どこでどう出会ったのかは分かりません。着飾った女性といかにも木訥な男性の夫婦が、バスに乗っていました。いや、初めは女性だけでした。そしてその女性が目的地に着いたとき、彼女の夫である男性が乗り込んできたのでした。そしてそのまま、彼女は乗り過ごしてしまったのでした。バスはそのまま進んでいき、30度はあろうかという急斜面を転げ落ちるように進んでいきます。もはや地面は舗装すらされておらず、バスはガタガタと揺れます。僕は必死に吊革をつかみました。さらに、灰色の急斜面が右側から大きく陥没していました。1メートルはあろうかという深い穴です。僕はあわてましたが、バスの運転手は何事もなかったかのようにハンドルを左に切り、崖(もはや坂とは思えなかった)の下にあるバス停を目指しました。
バス停に着くと、僕は彼の家に招かれました。彼は語り始めます。遠い、過去の思い出…。
彼は3人兄弟の真ん中だったようです。野球にあこがれ、海辺で野球をして遊んでいたのです。彼はまだ20代後半に見えました。しかし、彼の語るその姿は、父の世代に重なるものでした。
もはや、誰が誰なのかは分かりません。兄弟の誰かが、見るからに頼りないボールを投げます。明らかに強度の足りていないボールです。それでもボールは力強く飛んでいきます。そして、また兄弟の誰かが、角材なのかバットなのかよく分からないような棒で、そのボールを思い切り叩きます。ボールは空高く飛んでいきました。明らかに小さな…これは、おそらく一番下の弟でしょう。その弟がボールを必死に追いかけます。そして、布で縫ったような頼りないグローブでボールを捕らえたとき、ボールはグローブの中で、へなへなと形を失っていきます。弟も、2人の兄も、それを見てがっくりと力を失います。
彼は語り続けます。自分たちの周りには何もなかった一方で、テレビには夢の世界が映し出されていました。僕にとっては名前も分からないような過去の有名な投手が、打者に向かって力強いボールを投げます。しかしバッターはそれをものともせずに打ち返す、そう、プロ野球です。兄弟は、そんな彼らの姿を見て、遠く彼方、別世界のことだと思いながらも、強く憧れを抱きます。



って感じの夢でした。僕にとってはまるで実感のない世界のはずなのに、なぜか僕は、布団の中で涙を流して目を覚ましていました。
坂が30度もあったりしたのは、きっとマンガの読み過ぎでしょうね。そんな坂があったら、バスで下れるはずがありません。まあ、おそらくは、僕の「僻地」というイメージがそういう形になったのでしょう。
さて、僕は考え込んでしまいました。僕が夢で見たような子供達と、僕や僕たちの世代の子供達と、どちらが幸せなのだろうかと。父や母、そして、父や母の世代の人たちの努力を否定しようとは思いません。彼らは僕たちのために、そして何よりも自分たちのために、一生懸命豊かさを追ってきたのでしょう。その結果、夢は近づきました。多くのものが、すぐそばで手に入るようになりました。昔の子供達の親は、買ってあげたくてもお金がなくて、そしてグローブやバットがあまりにも高くて、子供に買い与えることができませんでした。しかし今は、その気になれば買い与えることが可能です。今でも安いとは言いませんが、それでも買えないことはありません。それも、その当時のビニールとは違う、材質だけならプロとさほど変わらない、牛革のグローブが容易に手に入るのです。
僕や、今の世代の子供達は、そうした世の中を生きています。憧れを抱けばすぐに、あるいは、憧れを抱く前から、そう言った優れたものが手に入るのです。父の態度は、父親として尊敬できるものでした。例えそばにあっても、容易に手に入れることはできませんでした。なんせ、小学校の2年生頃からねだり続けたファミコンは、買ってもらうまでに3年を要したのです。それ以外のものも大抵はそうでした。両親の唯一の失敗は、お小遣いをくれなかったことでしょうか。おかげで、あまり金銭感覚が身に付きませんでした。必要がなければ買ってもらえませんでしたが、必要であれば、かなり高いものでも比較的簡単に買ってもらえたので。筆記用具などですね。
このような経緯から僕は、ものが欲しいと思うことはほとんどありませんでした。どうしても必要なものがあれば買ってもらえましたし、ずっと欲しかったファミコンも買ってもらうことができました。スーパーファミコンは親戚から譲ってもらったような記憶があります。プレイステーションは、確か、弟と一緒にお年玉から買ったような気がします。欲しくて買ったものの記憶なんて、この程度に過ぎないのです。おそらく、ある程度の差こそあれ、僕の世代の子供達は皆、似たようなものでしょう。
だから、どうしても手に入れたいものがないのです。どれほど望んでも、決して手に入らなかった記憶がないからなのだと思っています。では、子供がほしがっても決して与えない方がいいのかと言えば、そうとも思いません。なぜなら、友達がみんな買ってもらっているのに、自分だけが買ってもらえないなんて屈辱でしかないからです。遠くて手に入らないのではありません。親の意図で手に入らないだけなのです。これでは、意味がありません。
あまりにも遠く、手の届かなかった世界の記憶。これは、人が生きる糧として、どうしても必要なのではないでしょうか。その世界が魅力的であればあるほど、人はその世界へたどり着きたいと願うはずです。今の僕には、たどり着きたい世界がありません。今、このとき、この環境がもっとも恵まれているように思えてならないのです。